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古い小説を読むことの難しさは何でしょうか。

それは、その小説を書いた書き手の生きていた時代の常識が、今のものとは違うことから 起こる難しさではないかと思います。

たとえば、18世紀の東京、つまり江戸に生きているひとが当たり前のように見ている風景と、今われわれが東京で見ているものは違いますよね。江戸には車も通っていないし、ビルも立っていない。着ているものから住まい、立ち居振る舞い、あらゆるものが違う。 だから、そのころのひとが当たり前と思っていて特に説明もなく書かれていることで、我々からすれば 分からないことが少なからずあるはず。

ロビンソン クルーソーの話が書かれた時代でいえば、17世紀から18世紀のイギリス人が見ていたものと、現代のイギリス人とか私たちが見ているものとは当然違う。

同じロンドンに住んでいたとしても、当然違う。そのロンドンという都市が 300年たてば 大きく変貌している。 当時の作家は、言うまでもなくその頃のロンドンを当たり前のものとして見ている。だから、取り立てて説明する必要がない。でも、その頃のロンドンを知らないわれわれにとって、当たり前でないものがたくさんある。説明してもらわないと すぐには飲み込めないものがけっこうあると思いますね。

つまり、常識とするものが300年たてば変わっている。その常識に立脚して作家は書いているわけですから、その常識を共有しない読者にとっては書かれた物語を理解するのに空欄があちこちにある。

それで、注釈というものが必要になるわけです。それらは 空欄を埋めるための注釈です。その話が書かれた当時においてそれらの注釈が必要がなく、今それらを必要とすれば、その注釈の分だけ常識が変わったということを意味すると思う。

仮に現代の作家が17世紀のロンドン、あるいは17世紀の江戸を舞台にして小説を書く場合は、それは今の我々の常識に立脚して当時のことを描くことになる。だから、文章の中に注釈が作品の一部としそれとなく埋め込まれる。ですが、17世紀の作家が 将来のわれわれのことを想定して物語を紡ぐわけにはいかない。それは不可能。かれらはその当時の、つまり同時代人の読者を想定して話を作っている。それで、300年後のわれわれがそれを読んだときの理解の助けとして注釈が必要になるというわけですね。

ただし、作家と読者の間にある常識の違いというのは 場所や時代を問わず常にあるわけで、それは程度問題であるということが言える。場所と時代の隔たりが大きければ大きいほど、その常識の相違が大きくなるだろうということが一般論として言えるのみです。同時代に所属する作家と読者の間でさえも常識の相違から生じる壁は少なからずありますからね。言えることは、時代の隔たりが300年間もあれば、その壁がより高くなるだろうということ。

それと、300年間の時代の隔たりが理解を不能にするものではないということ。立脚する常識の時代間の相違はあるが、ロビンソン クルーソーの話を今の我々が読んで理解できないということではないですからね。あるいは400年前に書かれたシェークスピアの作品を今の我々が楽しめないということはない。 ただ 注釈の数が多くなるだけの話です。

ccc
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